芥川賞受賞作・川上未映子「乳と卵」より選評の方が面白い?

あまり文学の素養はありませんが、面白かったので書いておきます。
文藝春秋2008年3月号に、芥川賞受賞作とインタビュー、審査員の選評が載っていますね。
作品自体は大阪弁とほとんど改行、句点のない文体で、読みにくかった方も多いと思われますが、慣れてくると非常にリズミカルで読みやすいですよ・・・とそういう地域に住んでいる私が言うのも何ですが。
インタビューで触れられているんですが、樋口一葉たけくらべ」へのオマージュなんですね、これ。人物の名前「緑子」「巻子」などもそうらしいです。作中にも「5千円札」が何度か出てきますし、そういうところもやっぱり「これは樋口一葉なんだよ」ということを示しているのでしょう。
さて、選評の方に参りますが、非常に面白かったのが、

作家は自分の中に絶対文学とも呼べるものを持っている。ほとんど生理的なレベルで。[・・・]となると、自分の中の絶対文学と候補作の距離が許容されるものかどうか、許容されるには何が必要か、ということになる。実作者が受賞作を選ぶということは、こうしたある種の妥協を、意識的にであれ無意識的にであれ、行うことだ。
高樹のぶ子「絶対文学と文芸ジャーナリズムの間で」)

この一節ですね(途中省略)。「絶対文学」と言うのは、審査員(=また小説の作家でもある)の持っている「文学観」みたいなもので、要するにそれと候補作を照らし合わせて、「妥協」した上にしか受賞は認められない、ということでしょう。引用しませんでしたが、「許容を強いる」「苦痛」だなんて表現もされてますね。
私が選評を軽く読んだ限りでは、石原慎太郎が最も「絶対文学」を強く持っている人だな、と思いますね。選評の文章は重厚で、理解力のない私が軽く読んだだけでは理解できない箇所もあったにはあったんですが、こんなことを言ってます。

受賞と決まってしまった川上未映子の『乳と卵』を私はまったく認めなかった。[・・・]一人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい。この作品を評価しなかったということで私が将来慙愧することは恐らくあり得まい。
石原慎太郎「薄くて、軽い」)

また、前回の諏訪哲史『アサッテの人』については、

[・・・]今回の候補作の大方は読者の代表の一人たる私にとっては何とも退屈、あるいは不可解なものでしかなかった。[・・・]大体、作品の表題がいい加減で、内容を集約表現しているとも思えない。自分が苦労?して書いた作品を表象する題名も付けられぬ者にどんな文章が書けるものかと思わざるをえない。[・・・]いい加減にしてもらいたい。
石原慎太郎「文学の、言葉の不毛」『文藝春秋』2007年9月号)

と、これまた厳しいお叱りを。
ところが、2007年9月号では、青山七恵『ひとり日和』については、村上龍限りなく透明に近いブルー』を思い起こさせるだとか、「この作者に関する興味」だとか、結構褒めちぎってるんですよね。要するに、石原慎太郎は審査員として極端なんです。私はそれこそを、石原慎太郎が「絶対文学」を強く持っている、と言いたいわけですね。
私は「絶対文学」も持っていませんし(そもそも文学的な素養・教養はあまり無いんですよ)、「絶対文学」を持つための条件である「作家」でもありませんし、こんな私が上記のようなことを書くのは少しばかりおこがましかったかもしれませんが、何とぞ皆さまの「絶対文学」や、「絶対ブログ」と照らし合わせて、許容していただければ幸いです。
作品も面白いけれど、作品をめぐる言説も面白いよ、ということでどうか一つ。