ありふれた奇跡 第1回

そう考えると、こうして生きてることが、もしかしたら奇跡かもしれないし、この世は“ありふれた奇跡”に満ちているとすら思える。すべての出来事を“奇跡”とくくってしまうことなどできませんが、でもそういう見方で人生を見ると、いまの日本人の多くが“ありふれた奇跡”の中で生きているという気もします。同じように、ドラマの登場人物たちもみなありふれた奇跡の中で生きてもいるんです。
http://www.fujitv.co.jp/arifureta-kiseki/sp_yamada/02.html山田太一インタビュー第2回))

線路に飛び込んで自殺しようとした藤本を二人同時に止めることで、加奈と翔太の二人の物語が動き出す・・・といった感じでしょうか。しかし何というか、とてつもなく静か。昭和なるものをほとんど知らない私でさえ、「昭和」を感じてしまった。メールやケータイが無ければ舞台が昭和だと言っても通じるレベルじゃないだろうか。でもスターバックスで偶然再会したりと、どこか現代的。まぁ、ストレートにズバッと切り込んだり出来ずに婉曲的な言い回しをしたり、どもったり、うまく伝えられないもどかしさが画面から伝わってくるのは、今の視聴者はどうなんでしょう。要するに、とても地味なわけで。特殊な技法も無ければ派手さもなく、BGMもほとんどないし、あっても台詞の邪魔をしないレベル。これを今あえてやろう、というところにやっぱり脚本家・山田太一の志の高さが窺える。とてつもなく古いと思う。でもそれゆえに新しい。あと仕事の描写がとても丁寧でしたね。ワーキングプアがどうこう言ってたドラマにちょっと見習ってほしいところが(略
しかし、やっぱり主役の二人も死のうと思った経験があるんだろうか。作中にどことなく漂う暗い影だとか、家族とのギクシャクした関係だとかも、そこに起因してしまうのか。しかし、ありふれた=どこにでもありそうな人物、出来事、設定なのに、どこにでもありそう=どこにも無い、という図式が成立してしまいそうだ。でもドラマティックで無くてもドラマは出来るんだよ、と思う。最後まで見るうちに、今あえてこれを、というのが見えてくるのかな。
追記。時間はかなりゆっくり流れてましたね。スローリーで間のある展開に退屈してしまう視聴者が出てくるかもしれない。とりあえず寝るなよ若人たち・・・って、寝るぐらいなら観ないか。