機動戦士ガンダム00第19話「絆」―絆の再確認(1)

ガンダム00において、刹那達の属するCBは、これまであまり好意的には見られませんでしたが、「悪」としてのトリニティの存在が刹那達を「正義」のガンダムとして肯定することを可能にした、とは前回述べた通りであります。
これまで刹那達は、良くも悪くも4人がバラバラに描かれてきました(4人が一緒にいる場面って、意外と少なかったはずですよね)。今回はCB側の「絆」が、「ガンダム」を巡るそれぞれの立場から描かれています。
刹那達のCBとトリニティの大きな違い、それは「ガンダム論」(あるいは「ガンダム観」)を持っているかどうかではないでしょうか。刹那は「お前たちが、その機体がガンダムであるものか」(ここで「お前たち≒その機体」であることにも注目)、ティエリアは「マイスターに相応しくない」とトリニティを糾弾しますね。それに対してトリニティは「あたしら味方よ」(ネーナ)・・・つまり、ガンダムガンダムだ、と同一視するわけです。ガンダムに区別なんてない、というわけですね。しかし刹那達はそうではなく、「ガンダムかくあるべし」といったガンダム観を持っているが故に、トリニティがガンダムであることを否定するわけです(コメントでも指摘がありましたが、SEEDに対する「悪意」を振りまいていたのは、このようなガンダム原理主義者が多かったのではないでしょうか。それに対してSEED側・擁護派は、「SEEDだってガンダムだ、「機動戦士」だ、一緒だろ」と思っていたような気がしますね。この辺りの事情も、本当は深く言及したいのですが、理解が浅いため困難でしょう。申し訳ありません)。
今回はそんな、肯定的(好意的)に見られ始めた刹那達が絆を深める、再確認する話でした。当然この話は前回のトリニティの「悪意」(刹那達をカッコつきの「正義」のガンダムとして、否定の否定として肯定させるもの)が無ければ成立しなかったわけで、前回を私が「ターニングポイント」と銘打ったのは、一応間違っては無かったのではないでしょうか、と自己弁護しておきます。
刹那のガンダム観は「紛争根絶の為の歯車となるガンダム」であり、ティエリアも恐らく同じでしょう。ティエリアはナドレを初めて見せた時に「僕」「私」「俺」と3つの一人称を連続して使っていたような覚えがありますが、そういう点からすると、ティエリアは絶対的な一人の人間ではなく、複数の意識の集合体、あるいは人工的に作られたモノであるように感じられますね(つまり「代わりがいる」かもしれないということです。ナドレのトライアルシステムがダウンした時に「再生」された過去の記憶が、まるで他人事のように、かすれたビデオテープのように再生されたことも関連づけられるでしょう)。「俺がガンダムだ」と豪語する刹那も、戦争根絶を「代わりにお前がやってくれれば」と、自分が単なるガンダムマイスターの一人であることを積極的に引き受けていますね。一方ロックオンは失った家族の「仇討ち」のために「俺は今無性にお前を狙い撃ちたい」と言うように、あくまで自分自身(代わりの存在しないもの)の感情で動いています。ロックオンは「ガンダムそのものになろうとしている」刹那に対して、「圧倒的な力」としてのガンダムを行使する立場です(「ガンダムに乗って、か」と刹那に問う場面、刹那なら「乗る」というより「なる」という感じですね。ロックオンと刹那のガンダム観は、やはり少しズレているような気がします。悪い意味ではなく)。
と言うとロックオンが人間的、刹那が機械的だ、なんて言っているように思われるかもしれませんが、刹那は「ガンダム馬鹿」と言われて「最高の褒め言葉だ」と返していますね。刹那は単に「ガンダム」という機械と自分自身を混同しているわけではありません。「ガンダム馬鹿」として、「ガンダムになろうとしている」(なりたがっている)という人間です。ガンダムと同一化しているわけではなく、ガンダムと同一化しようとして(しかし、挫折を繰り返して)いる、一人の人間です。ティエリアも「これが人間か」と言っていますね。刹那=ガンダムとして理解するか、刹那≠ガンダムとして理解するかで、CB側マイスターの見方は大きく変わってくるように思います。
小さくしようと思いましたが、出来ませんでした。続きはまた改めて。今回は前回より論調が乱れているように思えますので、厳しいご指摘もお待ちしています。