松浦寿輝『エッフェル塔試論』ちくま学芸文庫

エッフェル塔試論 (ちくま学芸文庫)

エッフェル塔試論 (ちくま学芸文庫)

[・・・]こう言ってもよい。あの巨大建造物を仮に「エッフェル塔」の名で呼ぶとすれば、それを模した複製イメージ群の一つ一つもまたすべて「エッフェル塔」そのものなのだと。パーティの余興に供されるマッチ棒で出来た模型のエッフェル塔も、輸出用のカマンベール・チーズの缶詰の蓋に印刷された絵柄のエッフェル塔も、エッフェル塔のコピーなのではなく、すべてほかでもないエッフェル塔そのものなのである。どれが本物でどれがコピーでもないのであり、三百メートルのものも十センチメートルのものも、忠実に転写されたものもいい加減になぐり描きされたものも、どれもこれも、「エッフェル塔的なるもの」が多かれ少なかれ分有された模型であるにすぎない。
(p.422)

最近怠っていたけれど、本業はこっち(読書)らしい。アニメ鑑賞もまた本業なりだけど。


エッフェル塔とは・・・である」という文章が異様に多い、500ページにもわたる本書は、様々な角度からエッフェル塔について検証したもの・・・というと敬遠したくなるけれど、何とも読みやすい。それは著者である松浦寿輝自身が言うように、「パリというこの町への愛に、自分なりの決着をつけようとした仕事だったから」だと思う。実際スラスラ読めた。松浦寿輝は評論から詩、小説もこなし芥川賞まで取ってしまうマルチな人なんだけど、自分自身のパリでの経験、自分の問題意識があったからここまで書けたんだろう。実際、工学的な知識も歴史的な知識も乏しいのでわからないが、この論考の濃さ、精密さは凄い(わからないのに何故凄いと言い切れるのかはスルーしてもらえると助かります)。あちこちに絵や写真も入っているのでわかりやすい。
しかしそれ以上に凄いのが、この「エッフェル塔」=「エッフェル塔的なるもの」=「イメージ」(の運動)の理論が、案外応用可能っぽいところ。本物のエッフェル塔なんて存在しない、実物の「三百メートルの塔」でさえ模型に過ぎない、写真も絵も全部一緒、と言い切るところに一種のニヒリズムを感じなくもないけれど、言われてみれば我々も、たとえ実物を見たことがなくても、写真や絵をさして「エッフェル塔だ」という断定を下すこともあるし・・・。何かに応用できないだろうか。多分出来ている人はもう出来ている気がするのでとりあえずここでは置いておこう。
他にもエッフェルの伝記に見られるパターンなんかも応用できそうで、読めばとにかく納得させられる一冊。エッフェル塔そのものはわからなくても、何だか納得できてしまう。いやここに至って私はまた一つの結論に納得させられた。つまり、「エッフェル塔そのもの」は結局無いのだと。
ちなみに著者は「エッフェル塔」を考察するときに、東京タワーをバカにすることはしっかりと忘れていないし、以下のような一節もまたある。これに興味を惹かれた人はぜひ一度読んでみては。

或る意味ではトキオ・シティが世界の他のいかなる都市にも先駆けて「近代」から離陸しつつあるように見える今、東京タワーの卑小さを自分の問題として真剣に受け止め、そこに自己同一性の危機の萌芽を見出して深刻に悩んだりする「西欧派」知識人が出現する可能性は、もはや皆無に等しい。そうした「真剣」や「深刻」が滑稽にしか見えないからというよりむしろ、漱石的な自意識の苦悩を正当化する歴史的基盤が、ゼロ戦戦艦大和の技術への誇りを正当化する歴史的根拠ともどもすっかり崩壊し尽くしてしまった時代に、今われわれは生きているからである。何しろ、電子情報の飛び交うポスト産業化社会の展望とともに、今や、極めつきのシミュラクルないしキッチュの極致としてのみずからを誇示する東京タワーがこれ以上ないほど見事なポストモダン建築として語られうるような感性的・思想史的文脈さえ、準備されつつあるように見えるからだ。
(p.189)

ちなみに他にも松浦寿輝は何冊か読んだので、とりあえず小説を紹介。
あやめ 鰈 ひかがみあやめ 鰈 ひかがみ 花腐し (講談社文庫)花腐し (講談社文庫) もののたはむれ (文春文庫)もののたはむれ (文春文庫)