コラム:「キャルが死んだ」というのはどういうことか。

さて、何か昨日思いついたのでダラダラと書きます。
先日の「Phantom -Requiem for the Phantom-」でついにキャル(=ファントム・ドライ)が死んでしまいました。その際に気になったのが、「もしも」の世界とでも言うべき場所で、レイジとキャルがとある会話をしていたこと。すなわち、「レイジとキャルが離れ離れになってしまう夢」を見ていたという話。
ところがそれが「もしも」であって、「現実」はレイジがキャルを撃ち殺してしまうわけです。「もしも」の世界の中で「もしも」と言った事柄が現実。
こう書くとキャルに救いの可能性が「生きている」気がしますが、ところが「現実」にキャルは死んだわけです。ゲームプレイなどでは何度でも「やり直す」ことが出来るため、キャルが「生きている」可能性なるものは保持されるように思われるかもしれません。あるいは、同人誌やSSなどで「もしも」の世界を描く、救われる物語も作られることでしょう。
しかし、「Phantom -Requiem for the Phantom-」と呼ばれるアニメの中では、キャルは間違いなく死にました。いかなる同人誌やSS、想像力がキャルを救い出そうとも、それは「Phantom -Requiem for the Phantom-」ではありません。二次創作は一次創作とは決定的に違います。もしも二次創作でキャルを救い出せば、それはその作品内での話であって、「Phantom -Requiem for the Phantom-」の話ではありません。
キャラクターを救い出す想像力が生み出した二次創作というのは、それは素晴らしいもので、否定する気は全くありません。でも結局キャルが死んだのは「現実」です。少なくとも、作中の「現実」においては。こと、アニメは毎週リアルタイムで話が進行し、それは戻りません。もし話が戻るアニメがあれば、それは「戻る」という事象が「進んでいる」だけなのです(「エンドレスエイト」で長門の時間、そして視聴者の時間が「進んでいた」ことが無かったことを踏まえてください)。
要するに、その話の中で起こったことというのは、戻りえないということです。キャルが過程を省いてファントム・ドライとして現れたとき、「どうしてこうなった」「あのキャルはもう帰ってこないのか」とやや失望した記憶があります。それと同じ。理由はともかく、成長する前の、そして死ぬ前のキャルは、その物語の中では決して戻らないのです。二次創作は「別の物語」。ただ、「別の物語」=「もしもの世界」を紡いでいけることにある種の可能性が眠っていることは、私も信じているところです。
長々と話してきましたが、もしこのエントリの「キャル」を「キャラ」と読みかえれば、ひょっとすればわかってもらえるかもしれません。恐らく当たり前の話をしているだけなので、キャルが死んだことに納得のいっていないのは、多分私自身。